2010年03月26日

水木しげる★NHK朝の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』

貧乏でもほがらかに生きる夫婦の愛と成長の物語・・

2010年3月29日・朝8時〜NHK朝の連続テレビ小説ゲゲゲの女房

水木しげるの妻・武良布枝が夫婦の半生を綴った著作が原案

二人を取り巻く人々を涙あり笑いありで描く

水木しげる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

(みずき しげる、大正11年(1922年)3月8日 - )は、日本の漫画家。本名は武良 茂(むら しげる)。鳥取県境港市出身。東京都調布市在住。ペンネームは、紙芝居作家時代に、当時経営していたアパート「水木荘」から周りに名付けられた。

兵隊として戦争を体験したのち、終戦後より紙芝居、貸本漫画などを執筆。1964年に『ガロ』にて商業誌デビューし、妖怪を扱った作品により人気作家となる。代表作『ゲゲゲの鬼太郎』は5度TVアニメ化。2007年、『のんのんばあとオレ』によりフランス・アングレーム国際漫画祭で日本人初の最優秀作品賞を受賞。また妖怪研究家として、世界妖怪協会会長、日本民俗学会会員、民族芸術学会評議委員などを歴任、調布市名誉市民にも選ばれている。水木しげる記念館は境港市にある。

生い立ち [編集]
大阪府西成郡粉浜村(現・大阪市住吉区)で父・武良亮一、母・琴江の次男として生まれた。父・亮一は大阪で勤め人をしていたが、共同経営者とともに農機具を輸入販売する会社を興すことになり、妻子をいったん故郷の鳥取県西伯郡境町入船町(現・境港市)に帰した。茂が2歳ぐらいのときだった。だが父は、その後間もなく、事業に失敗して帰郷。新たな職を得て一家はここに落ち着くことになった[1]

茂は幼少時代、「死」に興味を抱き、弟を海に突き落とそうとするが、近所の大人に見つかり、両親にしかられた上に、当時同居していた「ねーこ」と呼ばれる祖父の妹に「やいと(灸)」をすえられた[2]。

恵まれた環境で育つが学校の勉強はできる方ではなく、両親は小学校入学を1年遅らせる。自身も認める超マイペースぶりから朝寝坊してゆっくり朝食をとり、たいてい2時間目くらいの時間から登校するという変わった生徒だった。当時、「新聞の題字を集める」のが子供たちの間で流行ったが、他の子供が飽きても熱中していた。また、屁を自在に出すことができ、朝礼のおりなどに放屁して子供たちをワッと笑わせるのが得意だった。

高等小学校卒業後、大阪の石版印刷会社に勤めるも、やはりマイペースが過ぎて2ヶ月でクビになった。絵の勉強をしようと思い立ち精華美術学院に入るが中退。東京美術学校(現在の東京藝術大学)の受験資格を得るため大阪府立園芸学校を受験するが失敗。新聞販売店に住み込み、工業学校の採鉱科に合格するが半年で退学になる。新聞販売店を辞め中之島洋画研究所に通いデッサンを集中的に学ぶ。

軍隊時代 [編集]
やがて太平洋戦争が始まる。「召集されれば死だ」と考えた茂は、「人生の意味」を求めるため、哲学書や宗教書などを濫読する。その中で、一番気に入ったのが、ヨハン・エッカーマン『ゲーテとの対話』だった。ゲーテにはその後も心酔し続けており、「自分の生き方の基本はゲーテ」と語っている。

召集令状を受け取った茂は、鳥取歩兵第四〇連隊に入営した。ラッパ手を命じられたが信号ラッパがどうしても上手く吹けず、転科を願い出たところ、歩兵として南方行きが決定した。

1943年10月、その後の人生に大きく影響したニューブリテン島ラバウルへ岐阜連隊・歩兵第二二九連隊(連隊長に平田源次郎大佐)の補充要員として出征する(当時21歳)。乗船したのは日本海海戦で「敵艦見ユ」を打電した老朽船・信濃丸だった。ラバウルへ向かう途中敵潜水艦に襲われたものの、なんとか無傷で現地に上陸する。このニューブリテン島での戦争体験がその後の水木作品に影響を与えた。装備も作戦も優れた連合軍の前に、所属する臨時歩兵第二二九連隊支隊長の成瀬懿民少佐は玉砕の命令を出すが、水木が所属していた第二中隊長の児玉清三中尉の機転で遊撃戦(ゲリラ戦)に転じ、そのおかげで生命を拾うこととなる。児玉はその後自決した。

その後、水木はマラリアを発症し、死線をさまよう。さらに療養中に敵機の爆撃を受けて左腕に重傷を負い、軍医によって麻酔のない状態で左腕切断手術を受けた。だがマラリアも負傷も快復して終戦を迎え、九死に一生を得て駆逐艦・雪風で日本本土へ復員できた。

片腕を失ったことに対して水木は、「私は片腕がなくても他人の3倍は仕事をしてきた。もし両腕があったら、他人の6倍は働けただろう」と語り、「左腕を失ったことを悲しいと思ったことはありますか」という問いには「思ったことはない。命を失うより片腕をなくしても生きている方が価値がある」と答えている。

従軍中の事象は『水木しげるのラバウル戦記』に詳しい。

紙芝居作家時代 [編集]
終戦後、武蔵野美術学校(現在の武蔵野美術大学)に入学する。魚屋などを経て、東北に復員兵救済募金旅行をするうちに中退。募金旅行の途中で立ち寄った神戸市兵庫区水木通のアパートで家主に持ちかけられた話に乗り、借金の肩代わりを条件にこのアパート「水木荘」を譲り受け、貸家経営を始める。

アパートの住人に紙芝居作家がいたことから、紙芝居の語り手として名人だった鈴木勝丸の阪神画報社に所属し、また加太こうじを紹介され、紙芝居作家として作品を描く。ペンネームの「水木しげる」は、鈴木が本名を覚えてくれず、いつまで経っても「水木さん」「水木さん」と自身を呼ぶため、それに従ってつけた。貸家経営も紙芝居も次第にジリ貧となり、経済的に逼迫した毎日が続く。この頃すでに、『墓場の鬼太郎』『河童の三平』を描いているが、紙芝居は使い捨てで「後世に残す」という部類のものではなかったため、水木の紙芝居作品は現存していない。

貸本作家時代 [編集]
その後、昭和30年代になると貸本漫画の流行で紙芝居が廃れたことからアパートを整理して上京し、貸本漫画家に転身。各地を転々としていたが、調布市に家を買い、現在もその地に住んでいる。

貸本時代の水木は、主に戦記物漫画や怪奇系漫画を描いたが、他にもSF、ギャグ漫画、少女漫画、時代劇などの多彩なジャンルを、さまざまなタッチで描き分けている。また、この頃の画風には、海外の幻想的な絵画やアメリカン・コミックスの影響が大きい。また、ストーリーは翻訳された海外の短編小説から大きな影響を受けている。劇画の草分け的存在、小松崎茂が、水木の困窮を気の毒に思って経済的に多少の援助をしたこともあった。

しかし貸本業界もまた零細であり、頼りの原稿料を反故にされたり版元が倒産してもらえないということもざらだった。また、当時の水木の漫画は、マニア受けはしたが、一般読者には人気がなく、そのため事前の約束より原稿料を値切られることもしばしばだった。

『墓場鬼太郎』の一編「亀男の巻」は版元倒産のどさくさで出版もされずに原稿が紛失してしまっている。

あまりの貧乏さに、訪れた税務署員は「こんなに収入が少ないワケがないでしょう?」と疑ったが、水木は「われわれの生活が、キサマらにわかるか!」と怒って追い返した。この時代に描かれた『貸本版・悪魔くん』の「この間違っている世の中を倒して、革命を起こす」という過激な思想は、当時の水木の「懸命に働いても貧乏が続く」、自身の生活の悲しみと憤りから発している[3]。

結婚 [編集]
なお、この貧乏生活のさなか、すでに40歳近い水木を心配する両親の強い薦めで、島根県安来市出身の布枝夫人と見合いで結婚した。間に立ったのは布枝夫人の母の弟である叔父で、その叔父のつれあいの実家が武良家の遠縁だった[4]。

見合いから結婚式までわずか5日というスピード婚だった[5]。式場は米子の灘町後藤のお屋敷[6]だった。なお、見合いから結婚式の間、水木は母親の厳命で、左手に義手をつけていた。だが、本人は義手が大嫌いだったため、それ以降、義手をつけることはなかった。

夫人は上京して、水木のあまりの貧乏生活に驚く。水木は両親にさえ、自分が「貧乏している」ことを隠していたため、見合いの際は、「東京でそれなりの暮らし」と偽っていた。だが、夫人は水木の非常に熱心な仕事ぶりを見るうち、次第に尊敬の念がわき、器用だったため漫画のアシスタント役もこなした(『墓場鬼太郎』など)。また、夫婦で「連合艦隊の再現」を目指して「軍艦の模型作り」を楽しんだりもした。

人気漫画家となる [編集]
長女が生まれて生活がさらに困窮し、水木家は大変なピンチだった。しかし、長い貸本作家としての活動を経て、1964年、長井勝一編集の雑誌『ガロ』創刊号で、漫画家として雑誌デビュー。『ガロ』には『鬼太郎夜話』(鬼太郎シリーズ)、忍者モノのパロディ『忍法屁話』、本名の武良しげる名義での「漫画家講座」などを連載した。当時の『ガロ』は“白土三平の『カムイ伝』を載せるための雑誌”だったが、水木のユーモラスな作品も、読者の人気を呼んだ。

1965年には『別冊・少年マガジン』に掲載された『テレビくん』が、講談社児童漫画賞を受賞。40歳を過ぎて初めて、人気作家となる。なお、貸本時代の絵柄から、「子ども向けのかわいい絵柄」に変えるのに、非常に努力したという[7]。

その後、『悪魔くん』や『墓場の鬼太郎』(鬼太郎シリーズ)、『河童の三平』など主に妖怪が登場する漫画を発表し、妖怪漫画の第一人者となる。水木の作品の影響で、漫画、TV、映画の世界は一大妖怪ブームとなる。また民俗学での専門用語だった「妖怪」が、一般に伝わる経緯ともなった。また、『少年マガジン』で「大図解」を担当していた大伴昌司も、水木の妖怪画に惚れ込み、何度も妖怪についての特集を組んでいる。

初めてまともな原稿料が入るようになり、またアシスタントを多数使えるようになったため、水木漫画おなじみの「点描が非常に多い濃厚な背景」を描けるようになった。銅版画を思わせる「絵画的な背景」の前に簡素な線で描かれた「漫画的なキャラクター」が配されるという組み合わせは、水木が発明した非常にユニークなものである。

その後は鬼太郎シリーズの5回にわたるテレビアニメ化(『ゲゲゲの鬼太郎』)などで収入も生活も安定し、執筆ペースはさすがに衰えたものの80歳を超えた現在も健在である。

なお1980年代初期には、低迷期もあった。水木家では、夫人が「自分が働きに出ようか」と提案するほどのピンチだったという。水木は自信を失い、「妖怪なんていないんだ」と言い出すほどの落ち込みぶりだった。だが、次女が修学旅行で「目々連」を目撃し、その話をしたところ、水木は喜んで立ち直ったという[8]。そして、1985年の鬼太郎の再アニメ化と、『のんのんばあとオレ』『昭和史』などの自伝的な作品で水木自身の特異なキャラクターと、昭和の歴史を生きてきたその数奇な人生が知られるようになったことで、再ブームを巻き起こし現在に至っている。

また、貸本時代の作品も何度も復刻され、『墓場鬼太郎』などは文庫化までされ、さらにアニメ化までされた。ただし、復刻されていない作品や絶版作品も多く、古書として高値を呼んでいる。

妖怪研究家として [編集]
1970年に『水木しげる妖怪画集』を刊行。その後も、子供向けの「妖怪図鑑」の類を多数執筆。なお、「子泣き爺」「砂かけ婆」「ぬりかべ」「一反木綿」などは、水木によって初めて姿が描かれたものであり、現在の日本人が持つ「妖怪」イメージは、水木の漫画から大きく影響を受けている。ただし、2007年8月に、妖怪研究家の湯本豪一が保有する江戸時代の絵巻に描かれた「四角い犬のような妖怪」が、米国ブリガム・ヤング大学の図書館にあるものと符合され、「ぬりかべ」の絵と判明した。

1980年代には『水木しげるの妖怪事典 正・続』、『水木しげるの世界妖怪事典』などを発表。さらに、1992年には『カラー版 妖怪画談』を岩波新書から刊行して話題となる。

有名な江戸時代の妖怪出現事件である『稲生物怪録』についても、『木槌の誘い』として漫画化している。

また、水木の周囲に、妖怪好きの人々たちが集まってきたことから、1995年に世界妖怪協会を設立して会長となる。会員は、荒俣宏、京極夏彦、多田克己ら。1996年には、「世界妖怪会議」が開催され、以降、毎年夏に行われている。また、角川書店から1997年に世界妖怪協会公認の妖怪マガジン『怪』が刊行開始。水木も漫画を執筆している。

それらの「妖怪好き」の人々たちや、ノンフィクション・ライターの大泉実成らと、アフリカ・マリ共和国のドゴン族、マレーシアの夢を自由に見られるセノイ族、オーストラリアのアボリジニ、メキシコのインディオたちの村、アメリカの先住民・ホピ族の村など、世界のあちこちに「冒険旅行」と称したフィールド・ワークに行き、各地のスピリチュアル文化に触れて「妖怪を感じて」いる。

なお、祭りなどがあると録音やビデオ撮影をして、自宅で何度も鑑賞をしている。また、仮面などを購入し、自宅に展示している。

また、大泉実成『水木しげるの大冒険』によると、マレーシアのジャングルで、現地人に『水木しげるの妖怪画集』を見せたところ、「これは知っている」「これも知っている」と、猛烈な反応があった。その結果として水木は、「世界の妖怪は1000種類に集約される。世界各地の妖怪はほぼ共通している」という「妖怪千体説」を唱えた。

2005年に、かつての大映映画のリメイク映画『妖怪大戦争』が製作された時、妖怪の長役として出演した。

『怪』連載の『神秘家列伝』など、妖怪が直接登場する作品を手がける機会は少なくなっていたが、映画に合わせて久しぶりに新作妖怪漫画『妖怪大戦争』(荒俣宏原作)を発表した。

のんのんばあと水木 [編集]
のんのんばあとは彼がべビィ(水木語で“子供”の意味)の頃、武良家に手伝いに来ていた景山ふさという老婆のことである。当時の鳥取では神仏に仕える人を「のんのんさん」と言っていたという。ふさは子供たちを集めてはお化けや妖怪や地獄の話をしてくれた。彼女の話す妖怪などの話に水木は強い影響を受け、後の水木漫画の原点となった。水木は「この小柄なおばあさんが私の生涯を決めたといっても過言ではない」と述べている[9]。ふさは水木に“もうひとつの世界”を教えてくれたという。ふさは水木が小学5年生の時に死去した。

幼少時代の彼は自分の名前を正確に発声できず「げげる」と言っていたため、「ゲゲ」があだ名となった。後に水木はそのあだ名がアニメ『ゲゲゲの鬼太郎』のタイトルの原点となったと語っている。『のんのんばあとオレ』には、幼少期の水木の様子が生き生きと描かれている。同作品はNHKで実写ドラマとなって放映された。

戦争と水木 [編集]
戦争を主題とした水木の漫画・著作は多く、彼の代表作のひとつとなっている『昭和史』も戦争が大きなテーマであり、また貸本時代から描いている戦記漫画が多数ある。なお、水木はその他にも、歴史上の人物の伝記漫画、SFやミステリー作品など、多彩な作品を発表している。

戦記マンガ『総員玉砕せよ!』は9割以上実体験であると語るほど水木自身の思い入れが強い作品。2007年8月12日にはNHKスペシャルの終戦記念日関連特番として『総員玉砕せよ!』を原作としたドラマ『鬼太郎が見た玉砕 〜水木しげるの戦争〜』が放送された。

水木は戦中現地でマラリア熱で倒れ、衰弱による栄養失調状態に陥っていたところを現地住民に助けられたことがある。腕を失ってからも、彼らの助けで生活したという。そこでの彼への待遇は最上級のものであり、敗戦後、上官であり後の国立加古川病院名誉院長となる砂原勝己軍医大尉に現地除隊を申し込むほどだった(加古川病院は現在、財団法人甲南病院・加古川病院に名称変更)。砂原は2004年1月28日に逝去したが、1999年7月26日に放送された『驚きももの木20世紀』では晩年の砂原がニューギニアでの水木のことを詳しく語っており、非常に印象深い患者だったことが分かる。水木は彼らを指して「土人」と呼んでいる。近年では土人という用語は差別用語と見なされるようになっているが、水木はそれも承知の上で土と共に生きる人、大地の民という意味合いで親しみを込めて使用している。

また、貸本漫画家時代の一時期、戦記ものを集めた雑誌を主宰していたが、熱心な極わずかな購読者を別にすると売り上げはさほどでもなかった。その頃、『大空のサムライ』を出版したばかりの坂井三郎に「戦記ものは、勝った内容じゃないといけない(=売れない)」というアドバイスを貰った。しかし、開戦から暫く零戦を駆って敵戦闘機を撃墜する勝ち戦を続けガダルカナル島戦初日に重傷を負って実質そこで戦場生活が終わり、結果的にラバウルでの地獄の時期を経験することは無かった坂井に対し、圧倒的な武力の連合軍の前に敗戦への地獄道と化した戦場下を体験した水木とでは実体験が正反対だったが故に水木にはそのような話を描くことは不可能だった。ほどなく、主宰していた雑誌は潰れた[10]。

『総員玉砕せよ!』やインタビューに分かる通り、叩き上げの軍人であろうと死んでいった戦友を哀れむ態度を取っている。「近年自殺者が増えていることに対してどう思うか」との問いには「彼らは死ぬのが幸せなのだから(自分の好きで死ぬのだから)死なせてやればいい。どうして止めるんですか。彼ら(軍人達)は生きたくても生きられなかったんです。」と答えた[11]。

水木の人柄・性格など [編集]
現在の一人称は“私”や“僕”ではなく「水木サン」である。昔からそうだった訳ではなく“私”や“僕”、“俺”を使っていたこともある(実写版『悪魔くん』のプロデューサーによると、水木は“自分”という一人称を使うことが印象深いとコメントしていた。妻の布枝の著書によると、「漫画家・水木しげる」を演じるために使っているようで、家族に見せる顔と、ファン・編集者らに見せる顔は違うという)。

「私は胃が丈夫だった」と称し、幼少時から大食漢であり、“ズイダ”というあだ名(地方弁で「何でも食べる浅ましい者」という意味)を頂戴していた。そのため、戦中、戦後の食料不足の際は、非常に辛い思いをしたという。80才を過ぎた現在も食欲は非常に旺盛で、また失った左手以外には特に病気もなく、健康そのものという。水木プロダクションの公式サイトである「げげげ通信」では、2008年4月の昼食に「メガマック」とポテトを完食し、2010年1月にも2日に「ドミノピザ」と3日に「ケンタッキーフライドチキン」や「ベーコンレタスバーガー」を平らげる姿が紹介された。

座談が面白いことで有名で、多忙な水木のため、水木プロには「面談30分」という貼り紙があったが、水木自身がそれを無視して来客と何時間も、会話を楽しんでいたという。なお、テレビに出演してトークをしたことがあるが、ダイナミックに左右に体を動かして話すため、テレビのフレームからはみ出して喋っていたこともある。

自身を漫画のキャラとして登場させることが多いが、『昭和史』のような自伝的作品を除いて、「左手はある」ように描かれている。また水木の自画像は「現在の顔」と比べると細長く描かれているが、実際に貸本漫画家時代の水木は、十分な食事が取れないこともあって、やせて細い顔をしていた。

初期の作品には、海外の短編小説等からストーリーを転載したものが多かったが、著作権に対する認識が浸透していない時代であり、問題とはならなかった。ただし、1966年に朝日ソノラマから刊行された『猫又』に収録された短編「太郎稲荷」は、星新一作品とのストーリーの類似が指摘され、水木は盗作を認めて謝罪し、朝日ソノラマが和解金を星に支払い、単行本『猫又』は「太郎稲荷」が削除された版が刊行された[12]。

家を改築するのが好きで、気が向くままに自宅を改築した結果、トイレ5つ、風呂場3つ、階段5ヶ所の2階建て、しかも3階がある部分もあるという迷路のような家になってしまったという。そのせいか、『東西奇ッ怪紳士録』には「二笑亭主人」「フランスの妖怪城」(郵便配達夫シュヴァルの理想宮)の建築道楽の2篇が収録されている。

売れない貸本漫画家時代から、膨大な「絵についての資料」をスクラップ・ブックにしてコレクションしていた(貸本漫画家時代は100冊。現在は300冊を超えるという)。また、「ハヤカワ・ミステリ」などの書籍も「ネタになる」と、多数購入していた。妖怪関連書も神保町の古本屋で、古いものまで集めていた。それを見た桜井昌一は、「この人は絶対、世に出る」と感じたという。のちに、若き時代の呉智英などが、その資料の整理を手伝った。

境港市・調布市と水木 [編集]
故郷の鳥取県境港市に「水木しげるロード」がある。ロードに沿って妖怪オブジェが並び、水木ロード郵便局(既存局を改称)もある。設置されていた86体の妖怪を100体にするために1体100万円としてスポンサーを募集し、2009年現在、合計120体となった。このオブジェの「目玉の親父」は度々盗難に遭うため現在は台座に固定されている。合わせて「水木しげる記念館」も開館している。また同市では世界妖怪協会による「世界妖怪会議」の第1回、第2回も開かれた。

米子駅と境港駅を結ぶJR境線では「鬼太郎列車」が運行されている。また、同線の沿線16駅には「ねずみ男駅」(米子駅)「鬼太郎駅」(境港駅)の他、全国各地の妖怪をモチーフにした愛称が付与されている。

境港市の観光協会による「第1回妖怪人気投票」で3位になっている。荒俣をはじめとする研究家やファンの間でも「水木先生自身が(半ば)妖怪(と化している)」という見方をするものは少なくない。

2007年3月22日、妖怪のブロンズ像が並ぶ「水木しげるロード」の振興に役立てて欲しいと水木プロダクションは境港市に2000万円を寄付した。水木プロは2004年にも200万円を市に寄付している[13]。

50年近く住んでいる東京都調布市には、「ゲゲゲの鬼太郎」のキャラクターが車体に描かれた鬼太郎バスが3路線運行されている。

2003年10月には「深大寺そば」で有名な調布市深大寺の門前に「鬼太郎茶屋・深大寺店」が開店した。「妖怪舎」(株式会社きさらぎ。本社:鳥取県境港市)が営業している。なお、元祖「鬼太郎茶屋」は境港の「水木しげるロード」内にあり、経営等は無関係。境港の「本店」店長は「鬼太郎音頭」の作詞者である。

水木が住む京王線調布駅北口の天神通り商店街にはゲゲゲの鬼太郎を始めとする代表的な妖怪のオブジェが並んでいる。商店街入り口の目印は街灯に腰掛けた鬼太郎。

水木しげる - Wikipedia

げげげ通信
水木しげる - NetNihonkai-日本海新聞

★★★

NHK朝の連続テレビ小説『ゲゲゲの女房』(2010.3.29〜)

NHK“朝の顔” 倉科カナから松下奈緒にバトンタッチ

<松下奈緒>8時放送は「切りがいい」 向井理とそろって誕生会 朝ドラ「ゲゲゲの女房」会見
NHK朝ドラ、従来より15分繰り上げ
松下奈緒、向井理が初デート
NHK来春朝ドラ『ゲゲゲの女房』新キャストに南明奈ら 杉浦太陽が“ねずみ男”に!
松下奈緒 ねずみ男と“夫”の故郷でヒット祈願
NHK来春朝ドラ『ゲゲゲの女房』水木しげる役に向井理 好きなキャラは「猫娘」
NHK来春朝ドラ『ゲゲゲの女房』のヒロインに松下奈緒 好きな妖怪は「一反もめん」
NHK朝ドラ、来春は『ゲゲゲの女房』に決定 水木しげる夫人の自伝をドラマ化

NHK今秋朝ドラ『てっぱん』ヒロインに18歳の女優・瀧本美織
NHK朝ドラ 今秋からはお好み焼き屋が舞台の『てっぱん』に決定 舞台は大阪・広島・尾道

★★★

NHK連続テレビ小説『ウェルかめ』(2009.9〜2010.3)
NHK連続テレビ小説『つばさ』(2009.4〜2009.9)
NHK連続テレビ小説「だんだん」(2008.10〜2009.3)
NHK連続テレビ小説「瞳」(2008年4月〜9月)
NHK連続テレビ小説「ちりとてちん」(2007年10月〜2008年3月)

★★★

ゲゲゲの女房 - Wikipedia

★★★

“リアル鬼太郎” 大人に人気
緒形拳がぬらりひょん…映画「ゲゲゲの鬼太郎」

鬼太郎 東京・調布駅前の石こう像、盗まれる 
ゲゲゲの鬼太郎、「東京タワー」超え350館上映…GW興収バトル
石井一、妖怪役で銀幕声優デビュー

お台場フジテレビでゲゲゲの鬼太郎に会ってきました^^


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